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上記のように、2月のバイオエシックス研究会「米沢ゼミ」を開催します。 今回は、
『自然死への遠い道-医原死-「臓器提供意思表示カード」を読む-』
というテーマで、米沢慧さんのお話とディスカッションです。
興味のある方のご参加をお待ちしています。
なお、米沢さんの新刊「自然死への道」が朝日新書から出版されました。 定価 780円(本体)+税 です。 お近くの書店、ネットでもお求めになりますが、当日も販売します。 もちろん、著者のサイン入りです。 お楽しみに。
2011年2月19日 (土) イベント案内 | 固定リンク Tweet
「バイオエシックス研究会」第6回『米沢慧・いのちを考える』に《初めて》出席した。 実は、会の名前に馴染めず、今まで敬遠していたのである。「インフォームドコンセプト」や「レットミーディサイド」など、医療・福祉に関する用語が、肝心の対象者である患者にとって、極めて難解であるのに似ている。バイオ(bio=生命)+エシックス(ethics=倫理学)の合成語、即ち「生命倫理(学)」であろう。学生時代に「倫理学(ethics)」の講義を受講した記憶がある。その内容は忘れたが、昔から「人倫(人の守るべき道)」と言う言葉もある。 現実に生きている自分にとって、既成の事実である「生」の問題(何で生まれてきたのか)は、幾ら考えても答えは帰って来ない。然し、今から訪れる「死」の問題(如何なる死を選ぶか)に関しては、誰しもが無関心であろう筈はない。毎年3万人を超すと言われている「自死」、或いは「孤独死」など、社会的な問題も然る事ながら、今回のセミナーで取り上げられた「自然死」に対する倫理的な考察には、大いに啓蒙された。 何人かの著名人が選んだ「自然死への道」は、必ずしも、一般人の参考にはならない。何となれば、両者の生活環境は《全く》異なっているからである。已に判断能力が低下した状態の患者に対して、「死」に関する自己決定を促しても、所詮、無意味である。況や、殆ど(或いは、大半)の障害者が迎える「死」に関して、本人の意思を問う事は不可能であり、意味が無い。 既に平均寿命に達した現在の自分自身を振り返って見ても、やがて《必ず》訪れる筈の自分の「死」には、今なお実感が無い。例の「きのうきょうとは思はざりし」である。今、現在、「臓器提供意思表示カード」を提示する気には《到底》ならないのである。 平均寿命が世界一になり、「生まれてきてよかった」、「生きてきて良かった」(QOL)は一応定着したが、「いのちは長さや質」だけではない。「いのちには深さ」がある。そして、その後に、死の受容がやってくるのである。その様な「QLOの引き出し」を、目一杯解放する仕事が「ホスピスケア」の役割である。「生と死」を「往きと還りのイノセンス」として捉え、「生、病、老、死」と連なる人生のステージを通して、「自然死への遠い道」を著者は説く。
投稿: (英山華) | 2011年3月 6日 (日) 12:33
英山華さん、こんばんは。 書込ありがとうございます。
米沢さんのセミナーでは、いつもいろいろと触発されることがあります。 また、今回参加者の意見を聞いていて、ぜひこれからは参加者同士でも語り合う時間を設けたいと思いました。
遅くなりましたが、セミナー後もお付き合いいただき、ありがとうございました。 意識が遠のいておりましたが、お世話になりました。
これからもよろしくお願いいたします。
投稿: にのもんた | 2011年3月 6日 (日) 23:34
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コメント
「バイオエシックス研究会」第6回『米沢慧・いのちを考える』に《初めて》出席した。
実は、会の名前に馴染めず、今まで敬遠していたのである。「インフォームドコンセプト」や「レットミーディサイド」など、医療・福祉に関する用語が、肝心の対象者である患者にとって、極めて難解であるのに似ている。バイオ(bio=生命)+エシックス(ethics=倫理学)の合成語、即ち「生命倫理(学)」であろう。学生時代に「倫理学(ethics)」の講義を受講した記憶がある。その内容は忘れたが、昔から「人倫(人の守るべき道)」と言う言葉もある。
現実に生きている自分にとって、既成の事実である「生」の問題(何で生まれてきたのか)は、幾ら考えても答えは帰って来ない。然し、今から訪れる「死」の問題(如何なる死を選ぶか)に関しては、誰しもが無関心であろう筈はない。毎年3万人を超すと言われている「自死」、或いは「孤独死」など、社会的な問題も然る事ながら、今回のセミナーで取り上げられた「自然死」に対する倫理的な考察には、大いに啓蒙された。
何人かの著名人が選んだ「自然死への道」は、必ずしも、一般人の参考にはならない。何となれば、両者の生活環境は《全く》異なっているからである。已に判断能力が低下した状態の患者に対して、「死」に関する自己決定を促しても、所詮、無意味である。況や、殆ど(或いは、大半)の障害者が迎える「死」に関して、本人の意思を問う事は不可能であり、意味が無い。
既に平均寿命に達した現在の自分自身を振り返って見ても、やがて《必ず》訪れる筈の自分の「死」には、今なお実感が無い。例の「きのうきょうとは思はざりし」である。今、現在、「臓器提供意思表示カード」を提示する気には《到底》ならないのである。
平均寿命が世界一になり、「生まれてきてよかった」、「生きてきて良かった」(QOL)は一応定着したが、「いのちは長さや質」だけではない。「いのちには深さ」がある。そして、その後に、死の受容がやってくるのである。その様な「QLOの引き出し」を、目一杯解放する仕事が「ホスピスケア」の役割である。「生と死」を「往きと還りのイノセンス」として捉え、「生、病、老、死」と連なる人生のステージを通して、「自然死への遠い道」を著者は説く。
投稿: (英山華) | 2011年3月 6日 (日) 12:33
英山華さん、こんばんは。
書込ありがとうございます。
米沢さんのセミナーでは、いつもいろいろと触発されることがあります。
また、今回参加者の意見を聞いていて、ぜひこれからは参加者同士でも語り合う時間を設けたいと思いました。
遅くなりましたが、セミナー後もお付き合いいただき、ありがとうございました。
意識が遠のいておりましたが、お世話になりました。
これからもよろしくお願いいたします。
投稿: にのもんた | 2011年3月 6日 (日) 23:34