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2006年6月 5日 (月)

子どもといのちを考える

Kodomo01西日本新聞連載「死を見つめて生きる」
今日は、子どもといのちを考える」です。
「いのちをみつめるワークショップ」についての報告です。
写真は、2004年のワークショップで、「いのちのまつり」を題材に、人形劇を行った時のものです。みんなで何かをやり遂げる、ということは、大人も子どもも燃えるものですね。

さて、今回は、ご存知、「子ども共育HAKATA」のことについて書きました。
子ども共育HAKATAは、2002年日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会IN九州を契機に生まれました。といっても、実際にはその2年前、大会の準備の過程で、「次の世代にいのちの大切さをどのように伝えるのか。」という問題意識から生まれた一つの部会でした。
ですから最初は、「次世代教育部会」という名前でしたが、現代表の飛永さん(九州大学大学院生)らの参加で、「子どもも大人も、いのちを学ぶ一年生」という立場に立つ、ということで「子ども共育部会」、子どもと<共に学び、育む>という名前になりました。
大会の一年くらい前から合宿をやったりしながら、大会へ向けていくつかの企画を立てました。

その第一が、「いのちを見つめるワークショップ」

月に2回程度のスケジュールで、中高生13名、大人(大学生・社会人)17名が参加して、ワークショップを行いました。
大きなテーマは4つ。
「いのちの終わり」
「いのちの始まり」
「障害といのち」
「戦争といのち」
それぞれに関して、第1回目は講義などによる研修、いわゆる座学、というやつ。
2回目は、フィールドワークとして、現場に出かけての体験学習。ホスピスや、産婦人科病院にでかけました。
3回目はそれらを振り返ってのトーク。

フィールドワークをのぞいて、各回ともまず、ウォーミングアップを行います。
ジェスチャー伝言や、人間知恵の輪、など大学生が仕入れてきた工夫を凝らして、30分程度行うと、皆かなりリラックスできます。
その後に、研修やトークを行います。

また、ワークショップにはルールがあって、ここで話されたことは外に漏らさない、話したくない時は話さなくていい、自分の価値観を押し付けない、ニックネームで呼び合う、といったものです。

半年間のワークショップの成果を大会で発表しました。
全国の仲間たちの前で、子どもたちも大学生も、大人たちも誇らかに、その成果を話すことができました。

その後、この活動を継続していきたいという思いを持つ仲間が集まって、「子供共育HAKATA」という名前で独立。現在に至っています。

毎年、試行錯誤でいろいろな試みに挑戦しています。
今年は、少しお休みして、地力を蓄えよう、というところでしょうか。

近い内に、また子ども共育HAKATAの名前や、志をあちこちでご覧になることでしょう。

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コメント

初めまして。私は大学病院の小児病棟で働いている看護師です。小児癌で亡くなるこどもたちを見ていて最期までその子らしく好きなことをして人生を終えることはできないのかと最近よく考えます。日本はやはりホスピスにしても在宅にしても子供対象というのはなかなかないのでしょうか?もちろん命を助けてあげられればよいのですがそれがどうしても不可能なら最期まで病室に閉じ込めておくのではなく空を見たりおいしいものを食べさせてあげたり好きなことをさせてあげられればと思ってしまいます。

投稿: Farida | 2006年6月25日 (日) 16:25

Faridaさん、コメントありがとうございます。
小児癌は、成人に比べ治る率が高くなっているとはいえ、やはり不治の状態になった子供さんを看ることは、つらいことでしょうね。
ホスピスにしても、在宅にしても、わが国では確かに子供さんを対象にしたものはほとんどないようです。
私自身も、何とかならないのかと思っております。子供のホスピス、子供の在宅ホスピスができるといいですね。
いろんな場で、問題提起ができないものでしょうか?

投稿: にのもんた | 2006年6月28日 (水) 23:57

Faridaさんの書き込みを見て書かずに入れなくなりました。
私は、がんセンターで働いている看護師です。看護師ですが、3人の娘を持つ母でもあります。小児病棟の子どもとその家族を見ると、自分の家族が健康であることに感謝し続ける毎日です。今の私ががんで末期の状態なら、子どもとの時間を大事に出来ることを最優先に考え行動すると思います。これが子どもが末期の状態なら、高額な治療でも、海外でも、どんな姿になっても生きていて欲しい一心で行動しているかもしれませんし、変に冷静で主人から責められているかもしれないなとも思います。親とはそんなものかも知れないと考えて、子ども自身の気持ちは?・・・とおもい「もう直ぐ死ぬとしたら」の問いかけをした時、中学生の娘は「私はやりたいことをやる。痛い事は嫌だね」と言えるように(?)なりました。これも救命救急のテレビを見ながら、私も子どもたちに看護師だから話せるリアリティのある話をして来たおかげだと思っています。
私は、生と死について話す機会があることが大事なのだと思います。にのもんた先生が言われるように、戦火の中走り回り生き抜くことに全力をかける子どもと、日本の子どもが「生死」のとらえ方は違うと言えるし、真剣に考えている度合いも明らかに違うと思います。でもいつかは誰でも死ぬのだから、考えないで生き続けることは愚かだとも思います。
小学校で行われる平和授業は、悪いとは言いません。しかし戦争が遠い国、はたまた祖父母が子どものころの遠い昔の出来事になってしまった日本では、平和授業より生命倫理の授業のほうが大事ではないでしょうか。病院が学校に近づく事ができ、話す機会ができたらと思います。

投稿: 祐子 | 2006年6月29日 (木) 14:07

祐子さんのコメントにあるようにもし自分のこどもが病気だったらどんなにお金をかけてでも少しでも可能性があるのだったら助けたいと思うのは当然だと思いますし、私達も助けてあげたいと強く思っています。もちろんどんな姿であっても生きていてほしいと思う気持ちもよくわかります。けれどもどんなに頑張っても残念ながら命が燃え尽きてしまうことも少なくはありません。カナダやオーストラリア、イギリスなどではそんなこどもたちのために最期まで治療をしながらもターミナルケアも平行して行っていける小児専門のホスピスがあるそうです。私が関わってきたご家族の多くは面会制限もあり、満足いくまで子供と関わることができなかったり付き添いをしても狭い病室の中で医療者に気を使いながら家族の時間を過ごしていることが残念ながら多いです。こどもが毎日見てる景色は同じ病室の壁、空の青さも風のにおいを感じることもできません。私は最後まであきらめるのではなくたとえ突然死が訪れてしまったとしてもこの世に生まれてきてよかったと思ってもらえるような生活を病院内でも送らせてあげたいなと思っています。けれども現在どんどん小児病棟も縮小され急性期も一緒に診ていかなければならず手をかけてあげることが出来ないのが現実です。自宅で家族の時間を大切にしたいと思っても叶うことはなかなか難しいと思います。成人のようにもっと選択の幅がひろがってくれればなあと思うとやはり在宅やホスピスも普及してくれればなと思うところです。

投稿: Farida | 2006年6月30日 (金) 00:45

祐子さん、Faridaさん
それぞれに重要なご指摘、ありがとうございます。
自分の子供が病気だったら、死に至る病だったら、と考えるととても心が辛くなります。
何とか治療を、と思う一方で、安らかに最期を、という思いも同時に存在するのかもしれませんね。あるいは、毎日両方の気持ちを行ったりきたりするのかもしれませんね。

私たちの立場からは、やはりそういった方たちを支える場所やシステムつくりが必要な気がします。子供のためのホスピス、そして子供のための在宅ホスピスのシステム。
考えてみます。

投稿: にのもんた | 2006年6月30日 (金) 19:03

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